川の魚たちは今

4.生命の川(一)

1993年(平成5年)6月25日
 「兎追いし彼の山、小鮒(ぶな)釣りし彼の川………」
 読者の皆さんの中で、ウサギを追った経験のある人はあまりいないと思いますが、川で魚とりをしたことのある人はかなりいらっしゃるのではないでしょうか。泥にまみれて小川の水をかき回し、ピチピチと跳ねる銀鱗に胸をときめかせた子供の頃を壊かしく思い出される方も多いと思います。
 もう三十年以上昔になりますが、初めて自分で魚を釣り上げた日の川の流れ、岸辺のたたずまいを、今でも私ははっきりと思い出すことができます。
 生まれて初めて魚を捕らえた日の記憶、それは多くの人にとって人生の輝かしい一ページになっているようです。
 例えば、故開高健氏の芥川賞受賞作『裸の王様』、あるいは本多勝一氏のルポルタージュ『そして我が祖国・日本』などを読むと、記念すべき最初の魚を手にしたときの情景が鮮やかに描かれていて、思わず「我が同志よ」と叫びたくなってしまいます。
 その頃、川の水は人の飲み水としてはもちろんのこと、田畑の緑をうるおし、家畜を養い、魚を育んでいました。そして川はまた、その水に浸かりながら魚を追いかける人間の子供たちの「からだ」と「こころ」も育てていたのです。まさに「生命の川」は脈々と流れていました。
 この川を、そしてそこにすむ魚たちを変えたもの、それはまちがいなく人間でした。
 日本列島に人類が住むようになってからも、何千年という長い間、川の魚たちはその暮らしをあまり変えることなく人と共存してきたはずです。わが国の川の魚たちが決定的なダメージを受けたのは昭和三十年代の高度経済成長の時期でした。特に昭和四十年代は川の汚濁が極限にまで達し、マスコミは大都市の流れを「死の川」という名前で呼びました。
 私は昭和三十三年頃から立川市付近の多摩川で魚釣りをしていましたが、東京オリンピックの開催された三十九年に向かって急速に川が汚れていったのを覚えています。
 昭和三十年代前半、甲州街道が多摩川を横切る日野橋の下は、深い大きな淵のある水泳場でした。流れは青々と澄んだ水を湛え、白い石の河原には夏になると色とりどりのパラソルが並びました。そして、緑の草いきれの上手の上には、おでんやアイスキャンデーを売る店が出るほどの娠わいをみせました。
 獲った川魚はよく食卓に上ったものです。春は卵をもったフナの煮付け。夏のナマズの白焼きは上品な脂が乗った絶品。ウグイ(ハヤ)の天ぷらは、秋の一日の釣果。そして冬になると、水の引いた田んぼでのカイボリが楽しい年中行事でした。獲った魚は七輪で焼き、麦ワラを束ねた「ベンケイ」に刺して干しあげました。この魚は、甘露煮となって正月のお節料理の重箱を飾ったのです。
 しかし、昭和三十年代も後半になると川は濁って遊泳禁止となり、魚たちの種類も急激に減っていきました。四十年代に入ると、川の魚が食べられるかどうかが騒がれました。
 やがて高度成長の時代は終わりを告げます。公害や環境問題に対する国民意識の向上もあって、昭和五十年代に入り川の水は一時期よりもきれいになってきました。ですから多摩川や神田川にアユも戻ってきたのです。しかし、川の魚に関する多くの問題はまだ未解決であるといってよいでしょう。

ベンケイ図

ベンケイ

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