JR品川駅の西口を出て、車の激しく行き交う第一京浜国道を横浜方面へ5分ほど歩くと、旧東海道が左に分かれます。この道は車の数も少なく、通りに面した家並みには、いたるところに江戸の風情が残っています。北品川から青物横丁、鮫洲へと、かつての宿場町を眺めながらの散策は楽しいものです。そして、魚のお好きな方ならば、街のあちこちからウナギ蒲焼の香ばしい匂いが漂ってくるのに気がつくことでしょう。この通りには、驚くほどたくさんの鰻屋が店を連ねています。

今も鰻屋の多い品川区の旧東海道

今も鰻屋の多い品川区の旧東海道


  落語の「居残り左平次」は、かつての品川遊郭を舞台にしていますが、この中にも、主人公が『荒井屋の蒲焼をとってくれ』という場面があります。この荒井屋という鰻屋さんは今も健在です。
  では、旧東海道沿いに鰻屋が多いのはなぜなのでしょう。実はこれらの店は、かつて江戸前の海で捕れた鰻を蒲焼にして客に出していたのです。「えっ、おかしいじゃないですか。ウナギは淡水魚でしょう」とおっしゃる方もいることでしょう。しかし干潟や浅場が広がっていた戦前の東京湾は、年間300トンものウナギが捕れた好漁場だったのです。

江戸前ウナギの漁具「鰻鎌」とその先端
  今でも毎年秋になると、多摩川や荒川では東京湾へ下るウナギが見られます。これらの「下りウナギ」は東京湾からさらに太平洋へ出て、3000km以上の旅を経て産卵場であるマリアナ付近まで到達します。産卵は翌年の初夏で、産み出された卵は海面付近でふ化してレプトケファルスと呼ばれる柳の葉のような形の仔魚となります。この仔魚は、北赤道海流によってフィリピン付近まで運ばれ、その後、黒潮の流れに乗って日本まで運ばれるといわれています。その後冬から春先にかけて、レプトケファルスは体長5cmほどのウナギ形の稚魚に姿を変えて川へ上ってきます。そして、7~10年ほどを淡水で過ごしてから再び産卵のために海へ下るのです。ところが、ウナギの中には、淡水域へ入らずに、東京湾のような浅海で成長し、再び産卵場へ向かうものもいます。つまり、一部のウナギは、「海水魚」なのです。このことから、埋立の進む以前の東京湾では、江戸前ウナギの蒲焼はごく普通の食べ物であったことがわかります。